2013年5月31日金曜日

Cycling Africa 〜DAY 14〜




まずは昨晩、前夜祭の後の出来事を記さねばならない。

真夜中、おそらく1:00頃だろうか。ふとテントの近くから声が聞こえて目が覚めた。それは酒に酔ったように陽気な調子で、テントの中からは見えないが、明らかに僕らの方に向かって近づいてきている。

最終日くらい万全のコンディションで走り切りたいと願うのが人情というもので、僕は断固寝たフリを決込み、絡むならミハラに絡んでくれと念じてるうちに、気づけば睡魔の暗い闇に引きずり込まれていた。眠りの淵で最後に耳にしたのは、その男が「アディスアベバー!アディスアベバー!」と懐かしきエチオピアの首都名を10回ほど連呼する声だった。

よって以下に記すはミハラから後日聞かされた、彼の体験記である。


真夜中、ミハラは喉が渇いて目を覚ました。頭も体もやけにフワフワと浮ついている。明らかにワインを飲み過ぎたせいだった。

水を飲もうとテントから這い出し、自転車に括りつけられたペットボトルに手を伸ばすすると、ガソリンスタンド前の大通りから人影がミハラの方に向かって歩いてきた。

その人物は酔っぱらっているのか、陽気な大声を出し、右手にマサイスティックのような棍棒を持っていた。マサイスティックとはマサイ族がライオンと戦うときに装備する棍棒で、かの百獣の王の頭蓋骨をあっさり割ることができるトンでもない凶器だ。

コレはヤバいぞ、と10人いれば9人は若干警戒するべき状況である。ただ、残念なことに、酒と眠さでぼんやりしていたミハラは、残る1人に該当してしまった。

「ヤーマンヤーマン!」、そう連呼しながら近づいてくるそのドレッドヘアーの胡散臭い男はミハラの前に立ち止まると、彼に向かって何やら話し始めた。当然会話など頭に入らず、適当に相づちを打ち続ける。すると、男は突然「アディスアベバアディスアベバ!」「ハイレセラシエハイレセラシエ!」などと奇声を上げ始めた。

うんうんそうかいそうかい、と頷いていると、今度はミハラの手を取り、自分と同じポーズをさせようとし始めた。ぼんやりしながら成されるがままに両手を胸の前で合わせる。すると男が「ホーリーランド アフリカ!」と言ってお辞儀をした。なんとなくミハラも復唱しながらお辞儀を返す。

そんな動作を10回ほど繰り返した後も、様々なポーズをミハラは強いられ、成すがままに従った。その中にはうつ伏せに横になったミハラの上に男が多い被さる、という珍妙ここに極まれりといったモノまであったと言う。

全てを終え、男は去って行った。そしてミハラは眠りの続きを求めてテントへ戻って行ったのだった。

 ♦

「おい、そろそろ起きろ!」

そう言ってガソリンスタンドの警備に叩き起こされたのは、まだ朝日も昇らぬ午前4時。真夜中に不審者の侵入を許しておきながら、僕らを追い出すことには抜かりない。このへんの曖昧さというか適当さにそんなちょっとした「アフリカ」を感じずにはいられない。

とは言え、4時は流石に早すぎる。暗闇の中走る準備をしていないので出発する訳にもいかず、のらりくらり言い訳しながら珈琲を買って飲んだ。今日は最終日なのだ。有終の美を飾るべく、我々には完璧に且つスマートに一日をこなす使命がある。


AM7:17、ケープタウンまで残り65km。「どんな風が吹いても(笑)今日中に到着だ!」と、ウィントフックを出発した2週間前のような心持ちで、我々は意気揚々と自転車に飛び乗った。

市街を抜けると、突き抜ける青空の下に牧草地帯が広がっていた。小さな丘を上下しながら眺める詩的な風景は、見慣れはするものの見飽きることはない。Tシャツの中を泳ぐ風が汗ばんだ背中を心地よく冷やしてくれる。幾分か寝不足の感は否めないが、「今日で終わり」と思うとペダルも軽く感じるというものだ。

道中、国道脇に「よう、ちょっと寄ってけよ」的な雰囲気を醸す小店があった。頼んだコーラは虫歯気味の奥歯に染みる程、驚く位に冷えている。店の前の砂利道に腰を下ろし、綿菓子みたいに千切れながら空を漂う雲を眺めながら喉を潤した。

ふと思い立ってiPodを取り出しTHE BLUE HEARTSの『青空』を流す。南アフリカのアパルトヘイトを謳った言わずと知れた名曲だが、そのまさに主題となった地で青空の下聞くそれは格別だった。


どのくらい走った頃だろうか、小さな橋の麓に大きな工場が聳え立ち、その裏には貧相と称さざるを得ない家々が押し込められたように密集していた。錆びたトタンで作られたそれらは、その壮大な牧歌的風景の中で一際異彩を放っており、やはりというか、遠目に見てもそこで暮らす人々の大半が黒人であった。

それは紛れも無く、ここまでの旅路でも何度か目にしてきた、「アパルトヘイト」の爪痕だった。これが、年間殺人件数が年間交通事故死者数を上回るこの国家の一面なのだ。

憶測ではあるが、そこに住む人々の暮らし向きは、お世辞にも良いとは言えないだろう。彼らに可哀想と同情するのは容易だが、問題の根はもっと深い。すれ違った何人かの黒人労働者の両の目の、そんな安い同情を受け付けない程にギラギラと鋭く冷たく光るその様は、今もなお網膜に焼き付いている。

彼らは僕らを見て一体何を思ったのだろうか。


目立った坂道もなく、黙々と、淡々と、ペダルを漕ぎ続けた。

貨物列車がゆっくりと隣を走り去っていった。

牧草を刈り取るトラクターの風下を走って思わず咽せた。

レース用の自転車に股がった白人とすれ違った。

牧場で働くオッサン達が手を振ってくれた。

後ろから来た大型トラックの風圧で時速3kmスピードが上がった。

徐々に緑が増え、遠く岩山の稜線が雲で霞んで見えた。

何より、空は大きく、そして大地は広かった。


N7上にあるケープタウンの一歩手前の街に到着したのは昼頃だった。

車通りの激しい道沿いにマクドナルドの看板が見えた。思えば、エジプト以降の道中、一度もマックを見かけなかった。それだけにあの黄色い「M」に心浮き立たされたが、なんだか少し癪である。

街中はそこそこ大きな曲がり道も多く、その割に看板が少なく、道を間違えることだけ意識しながら走った。同じ轍はめったに踏まないのが我々の信条である。路傍を人が歩き何時でも道を尋ねられることに若干感動しながら、そこから10km弱、大通り路上の白線外側を走った。何度か轢かれかけ、クラクションで煽られた。都会は全く以て自転車に優しくない。一番頭にくるのは下り坂の信号だ。おれのイキオイを返せ!と叫びたくなること請け合いである。

「10kmくらい先にCAPETOWNの看板が見えるから、そこを右折ね」と道を尋ねたデキる黒人のオッサンが言っていた通り、そこにはちゃんと看板が立っていた。

dただ、誤算が2つあった。

1つはその道路標識によると、我々の目的地はまだあと20km彼方にある、ということ。もう1つは、その右折した道が6車線のバイパス道路であること、だ。もうじき到着と思い込んでいたので、正午を回ったが昼食はまだである。若干腹が減り始めている上に、6車線の「コレ自転車で走っていいの?」と誰彼構わず問いたくなるような道路だ。

躊躇うには十分な要素を目の前に突きつけられて、定石通りしっかり躊躇う勤勉な僕を残し、相棒は颯爽と轟音木霊する車通りに突っ込んで行った。全く以て、トンでもない。

実に完璧でスマートな一日だ。


淡々と、黙々と、強まり始めた風に逆らってペダルを漕ぎ続けた。道路端には白線が引かれ、歩道に見えなくもないのだが、我々以外に非自動車通行者を見ない事と、後方からの車に頻繁にクラクションを鳴らされる事から統合的に判断すると、おそらく「アウト」である。

パトカーは終ぞ見かけなかったので、それだけは幸いだったと言った所だろうか。「こええええええ!ぎゃあああああ!」という僕の哀れな叫び声は、一瞬で排気ガスと共に南アの空に溶けて行った。

ラスト、20km。連日の誤摩化しきれない疲労に加え、予想外の距離加算だ。肉体的にも、精神的にも、淵の淵の先っぽくらいまで、僕は追い込まれていた。だが、その排水の陣的状況は決して最悪なモノではなく、寧ろ不思議と心地良かった。

妄想雑念考え事の類の一切はペダルを漕ぐ度にふわふわと霧散し、段々と自分自身が自転車を漕ぐ機械であるかのようなちょっとアブナい錯覚を覚えた。

「右足、左足、今ペダルを漕いでいる」それだけしか認識できなくなりつつあった霞ゆく意識の中、時折ふと顔を上げると、徐々に車が増え、徐々に近代的高層ビルやら郊外大型ショッピングモールが増え、そして徐々に都会の匂いは増していった。

驚くことに電車(列車ではなく、電車)が走っていたり、アミューズメントパークなるものまであった。おおよそ「アフリカ」っぽくない光景に半ば驚愕していたが、ふと、唐突に、「これもアフリカの一つの姿なのだ」と理解した。

絶対的な貧困、栄養失調で腹部突出した子供、部族紛争と度重なる内戦、それを誘発する汚職に塗れた政治と圧倒的な格差、怒号飛び交う喧噪の街並と疫病が蔓延するスラムで救えるはずの命を蝕まれる人々の涙

アフリカに対して、そんなイメージを持っていたのは事実だ。現にこの8ヶ月半、それだけではないアフリカの側面を多々見聞きしてきたにも関わらず、何処かそんな「アフリカ」のイメージに捕われている心があった。

だが、この燦々たる大都会も、アフリカの一部であり、「アフリカっぽい」等というのは戯言に過ぎないのだ。それはただの言葉で、大陸の固有名詞で、それだけなのだ。そんなことを、今更ながらに、唐突に感じた。その瞬間、妙に腑に落ちる心があった。重くてしかたなかったペダルは、不思議と軽やかに感じられた。

視界の端には、ケープタウン名所「テーブルマウンテン」が堂々と佇んでいた。


CAPE TOWN

緑の道路標識が旅の終わりを告げた。ミハラとの2週間の自転車旅が、そして僕自身の9ヶ月弱の旅が達成された瞬間だった。

「縦断」や「アフリカ一周」などという言葉そのものにはそれ程魅力を感じていた訳ではなかったが、「随分遠くまできたんだなあ」と実に感慨深い。人生史上初の大冒険の終わりだというのに、寂寥のようなものは一切胸中になく、ただ、アフリカの空のように、晴れ晴れとした気持ちだった。



正直に告白すれば、到着直前に「CAPE TOWN (船の絵)」と描かれた看板を曲がってしまい、ケープタウン港なるただの漁港に行ってしまっていた。が、後で聞いたところ、ミハラも同じ所で道を間違ったそうだ。あれは勘違いしたくもなる。作為的なモノを感じる。



ともあれ、僕らは終にゴールに到着した。完全走破ではないが、堂々たる到達であると自負している。

ケープタウン中心街は思わず目眩がする程に、物と人で溢れ返す、ヨーロッパもかくやといった大都会だった。道行く人々の肌は白黒茶黄とまさに人種のるつぼの様相を呈している。そんな中、薄汚い自転車旅行者が「浮く」のはある種の必然で、動物園の猿を見るような目で僕のことを凝視する周りの視線も、今日ばかりはフィナーレを飾る歓声の類にしか感じられない。

そんなどうにもふわふわする気持ちで目星を付けていたホテルに向かいチェックインを済ませた。フロントの男がカスミさんの事を知っていて、「彼女は今どこにいるの?!」と嬉しそうに聞いてきた。その瞬間、「ああ、ほんとにケープタウンなんだな」と妙に納得してしまった。


その夜、久方ぶりのシャワーを浴びて身を清め、バックパックの奥底に沈められた比較的キレいな服を引っ張りだし、近所の寿司レストランへと向かった。気付けに一杯ワインを飲んだら、暫くの間に随分と酒に弱くなったようで、グラス二杯程度で大都会を裸足で歩く程に僕は上機嫌だった。

レストランのドアを開くと「ピーンポーン」とやたら懐かしい呼び鈴がなった。薄着のカワイイお姉ちゃんに案内され席に着くと、酒瓶やら掛軸やらと、そこは小さな日本だった。

日本語で書かれたメニューに目を通し、寿司とKIRINを注文すると、すぐに瓶ビールが目の前に運ばれてきた。見紛う事無き、KIRINのラベルである。

僕と同じ位ニヤニヤしているミハラと、これまた同じタイミングでジョッキを掲げ、どちらからともなく、いやこれも同じタイミングだったかもしれないが、口にした。


「乾杯!!!!」







♢ 

チャリンコだったからこそ気づけた事があった。チャリンコだったからこそ見られた風景があった。チャリンコだったからこそ出来た経験があった。チャリンコだったからこそ涙した優しさがあった。

単調な単純作業はシンプルさをもたらした。要らないモノは全て捨て、いっそカメラやパソコンもパスポートも金も捨てていいや、と本気で思える「なんとかなる」の境地に至った瞬間すらあった。僕は、ミハラは、身一つで強烈に生きていた。

だんだん周りの音が消え、自分の「中」の音が五月蝿い程聞こえてくる事があった。そしてそれすらもやがて消え失せ、「無音」に達する瞬間があった。何も聞こえず何も感じず、ただただマッシロ。その心地よさは今でも忘れられない。

多くの人に助けられ、励まされた。登り坂のあとの下り坂のように、悪いことがあった後には必ずといっていい程良いことが待ち受けていた。そんな予定調和の毎日は思い出を嘗て無い程に濃く、密なものにしたようで、それはこの本編の長さからも察して頂けるだろう。


「なんでインドア派のおれがクソみてーに日焼けしながら荒野の中チャリ漕いでんだよ」

そう自問自答し続けた当時の自分に言ってやりたい。

「漕げば分かる(笑)」



(動画はこちらから)

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