2014年2月14日金曜日

ひとりの時間について思うこと





(先日M-Laboで掲載して頂いた記事を転載→「ひとりの時間について思うこと」

M-Laboライターのokabeさんが以前「とてもシンプルだった。1人でいたい時がある理由。」というテーマの記事を書かれていた。「1人の時間」、これに関して思うところ・自身の経験と被るところがあるので、少し書き記してみたい。

元来、僕は1人でいるのが割に好きな質だ。単純に「気疲れしない」というなんとな〜くな理由からだったり、okabeさんの言うような「思考の深層を探る」機会としてだったり、時折ふっと人から離れたい衝動を覚える。結果から見ればその衝動が少なからず「休学×旅」という選択に繋がった部分もあるだろうと今は思う。


1人×旅での「自分の時間」

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 いわゆる「1人旅」を一般化する気はないが、「旅」という自身にとっての非日常は、往々にして「自分自身と向き合う時間」を提供してくれる。
もちろん、異文化に触れることで考えさせられることや、常識というものが如何に脆いものであるかだとか、そういった類いの比較による発見を否応なしにさせられることは多いのだが、僕の場合それと同じくらいに「漠然と考えを巡らす時間」というのが多かった。
変わらない景色をひた走る長距離バスの移動、誰もいない安宿の屋上で1人ぼっちだった時、地面に寝転がってぼんやりと雲を眺めていた時...。
そんな時は大抵、目の前の景色をぼんやり眺めながら、漠然と考えを巡らせ思いを馳せていた。真面目に今後の人生設計をすることもあれば、結婚式に誰を呼ぼうなんていう俗な妄想に勤しむ日もあった。
自分が何を好んで何を望むのか、そんなシンプルな問いかけから、どう生きて何を成してどう死ぬのかなんていう哲学チックな思索を繰り返した日々は、間違いなく「自己との対話」の連続で、実に贅沢な時間だった。

サハラ砂漠の真ん中で感じた「1人と独り」

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 スーダンというアフリカ北部に位置する国にいた時のこと。そこまでの道中で知り合い意気投合した2人の旅人と僕は行動していた。
美しい夕日を眺めその感想を共有したり、他愛もない話で夜な夜な盛り上がったり、彼らと行動するのはスゴく楽しかったのだが、ある日突然「1人になりたい」衝動が訪れた。
結局、次の街で再び落ち合う約束を交わし、僕は再びひとりバックパックを担ぎ、バスやタクシーを乗り継いでベジラウィヤと呼ばれる遺跡群に到着した。
半ば朽ち果て廃墟と化した大小新旧様々なピラミッドが、何もないサハラ砂漠の真ん中にポツンと佇んでおり、村ひとつ見当らない色気ない景色が広がっていた。
中継した町で水と食料を買い込んでいた僕は、この砂漠のド真ん中で野宿をすることに決めた。一晩明けて、テントの扉を開けば、眼前の広大な砂漠に聳え立つ遺跡群が朝日を受けて煌めいているに違いない、そんな算段だった。
無音の静寂の中ひとりぼっちというのは、時間の感覚を麻痺させる。1時間がものすごく長く感じられ、世界から取り残されてしまったか、はたまた世界を取り残してきてしまったかなどと真剣に考え始めるほど、時間はゆっくり流れた。
夕日がじれったい程ゆっくりと地平線に沈み、東の空が黒ずみ始め、恐ろしいほど静かに夜は来た。
この夜は旅中、あるいは人生で一番の星空を見た。全天を瞬くことを止めない星々が覆い隠し、天の川は肉眼でくっきり見えるほどに輝きを増し、完全な静寂の中、その美しさはいっそう鋭く感じられ、なんだか泣き出しそうになったのを今でも覚えている。
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その夜、僕が一番強く感じたのは「一人になれて良かった」ではなく「自分は独りじゃなかったんだな」ということだった。
「一人がいいと思えるのは、本当は一人じゃないときだけ」
好きな小説の一節だが、この時ほど理解したことはなかった。一人でいること、それすらもが誰かと一緒にいることの延長戦上だ、とシンプルに腑に落ちた。
また、大好きな映画(小説)「into the wild」の一節にもこんな言葉があった。
「happiness is only real when shared(幸せは誰かと一緒にいて初めて味わえる)」
他者との関わり合いの輪から完全に解脱することはできない。だから歩んでゆけるし、だから一人にだってなれる。そう感じた。

※当時の記事はコチラから。

まとめ 僕が思う「ひとり」の時間

 物理的に完全な「ひとり」になってみて、自分は自分が思っていたほど「ひとり」でないことを、あの星降る夜に教わった。そして同時に、「ひとり」でないことに甘えてはいけないと強く感じた。

人との対話の中で生まれる価値や、理解や、それによる思考の整理は間違いなくある。が、自分の内で真に消化し吸収を終え血肉と変える、そんな時間をそれと混同してはならないのではないか。

思うに、人からもらった答えはフェイクだ。本物に見えても、外にあるものはいつか枯れ、朽ち、果てる。
内側にある芯を探す作業、生きてゆく上で何事においても大事であり、それを行える「ひとり」の時間を安心して持てる幸せを噛み締めなければならない、そう思った。

旅の経験を過度に解釈するつもりは毛頭ないが、僕は人の生は「ひとり」であることだと思う。
死ぬ時は当然ひとりで旅立ち、日々において関わる他者とも超えることのない一線は存在する。そんな孤独な一人街道においても、強烈なまでの他者に安らぎを覚える人の情というのは、なんとも愛おしい。
学校に通い、バイトや部活に勤しみ、スマホを使っていつでも他人とアクセスでき、あるいは恋人と睦言を交わし合い、そんな忙殺される毎日の中で完全に「ひとり」になれる瞬間というのは意外に少ない。
学生の今ですらそうなのだから、医療者として社会に出てからは尚更だろう。思考の深化や自己との対話、そんな己を知る作業に時間を割くのもまた、他者の倫理に触れることの多い医療系学生にとって必要な青春なのではないかと思う。

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