2014年7月25日金曜日

イタリアに留学してきた。



僕の在籍する秋田大学では「基礎配属」なる研究実習期間が3年次に設けられている。今年でいえば5月26日〜7月4日の間がそれにあたり、生理学や生化学、免疫学から薬理学、法医学や解剖学...といった具合に多種多様な講座がホテルのビュッフェのように用意され、概ね2年次の成績順に志望が優先されてゆく。

その基礎配属枠に「海外実習」という項が含まれる。これは具体的には提携姉妹校であるフランスのリール大学あるいはイタリアのカリアリ大学で研究等を行うという、いわば6週間の短期留学だ。大学入学時のざっくりとしたガイダンスでこの制度を耳にし、昨年度はこの計4名前後の枠を狙って勉学にそれなりに勤しんだ。例年それなりの数の成績上位者が申請し、中には諦める者もいると聞くが、色々な幸運に恵まれてイタリアへの派遣が決まった。これも日頃の行いの良さが成せる業である。今後も僕の人生は右肩あがりにラッキーが訪れることであろう。

正直に言えば特定の実験に興味があるわけではなかったが、学校から20万円の助成金を頂き、天気の悪い梅雨の秋田を離れられるだけでも儲けものだ。フランスでなくイタリアを選ぶことに必然性はなかったが、「イタリア留学」なんていう甘くて優雅な響きに惹かれ、迷わず留学申請書を提出した。





イタリア西方に浮かぶ島、サルデーニャ。九州ほどの大きさのこの島の南に、カリアリは位置する。坂の多いヴィンテージな建物が立ち並ぶ港町で、どことなく小洒落た雰囲気が漂っていた。

僕と同級生2人が配属されたのは肝臓癌の研究をしているラボだった。ラットの肝臓からスライドを作成し、それに種々の染色を施し、高性能な顕微鏡で画像を取り込み、癌陽性箇所の面積やら個数をパソコンでカウントする、といった一連の作業を満遍なく手伝わせてもらった。例年「昼には帰宅していた」と聞いていたが、大抵実験が終わるのは17:00過ぎと、随分話が違った。免疫染色自体は待ち時間が長い単純作業で、正直に言えば楽しくはなかったのだが、僕の所属していたチームのリーダーが英語の堪能な会話好きなポーランド人で、空き時間の無駄話や時に彼女の真面目なアドバイスは楽しかった。






そんな具合だったので、毎日はゆるやかな雲のように過ぎていった。昨年までは留学生は学生寮に入寮していたそうだが、今年は研究棟(大学ではなく研究室がいくつか入っただけの建物)の移転に伴う工事があるとかで、アパートを借りて同級生らと暮らした。イタリアの街はピアッツァと呼ばれるジャンクションや広場を中心に放射状に道が走っている。僕らのアパートは一番栄えているイエンネというピアッツァのすぐ近くにあり、ラボまでも徒歩数分と、極めて便が良かった。イエンネにはオープンバーが軒を連ねており、昼夜を問わず上機嫌な人々で賑わっていた。ワールドカップの時期には各国選手の一挙一動に歓声や怒声が響いていた。アパート住まいゆえに同年代の学生と知り合う機会は残念ながらほぼ皆無でそれだけが悔やまれるが、「のんびりする」という目標は噓偽りなく完遂できたのでその点は満足である。





純粋な発見は多かった。アフリカからの黒人移民者が街中に多くいたこと、そしてそれを良く思ってないイタリア人が多いこと。ホントに皆毎日パスタを食べてること。そこら中にあるカフェでエスプレッソを立ち飲みするのがイタリア流であること。若い世代はほとんど教会に行かず、聖書の通読をしたことのない若者が多いこと。スーパーのチーズと肉はひたすら安かったこと。割に大きな街なのに目が合うと人々が声をかけてくれること。書き出せばキリがないほど色々だ。「旅」のように新鮮さに常に目を惹き付けられるのとはまた違う、一カ所に留まり淡々と暮らす日々のフィルターを通して差異を実感してゆく、そんな「留学」ならではの良さを高校ぶりに味わえた。



ラボが休みの週末は旅行に出かけた(これはまた別記事で)。中でも最終週に訪れたトリノでは、高校留学時代以来の友人に会うことができた。実に6年ぶりのリユニオンだ。お互い胡散臭いあご髭を生やし、見かけからは当時の若さが失われ始めていたが、一度話しだすと当時のように会話は止まらなくなり、辛い時期を共有したという事実は関係を密に保つのだなあとなんだか嬉しい気持ちになった。






「発見」は多かったが、啓示のような「気付き」への期待はしていなかった。アフリカにいた時とはそもそも目的が違ったからだ。師匠Dr杉下は異国でのそんな実感の瞬間を「シークレット・ソサイエティの扉が開く」と表現していたが、6週間というのは一見長そうで実に短い期間だ。そこまで求めるのは贅沢が過ぎるだろう、そう思っていた。

だが、結果論にはなるが、何にも増して幸運なことに、1つ大きな収穫があった。それは「英語は思っていたより、やればなんとかなる」ということだ。

もし今後、国際医療の道に進んでいけたとしたら、遅かれ早かれどこかのタイミングで絶対に言語は勉強しなければならない時期がくる。特に英語は世界の必須ツールなのは周知で、できなければ話にならない。それなのに自身の英語力に対してずっとコンプレックスを抱いてきた。アメリカ留学していたといっても所詮は1年だ。高校生の日常会話程度でしかなく、TVなんてほとんど何を言っているか分からない。同期の僕よりずっとペラペラになって帰って来たヤツを見ると、いつも焦っていた。

実際今も僕の英語はその程度だ。イタリアで上達した、というわけではない。ただ、それは遠く離れた異国の地で肝臓を色々と染色するくらいには十分で、必要になるタイミング前後で専門用語を自学すればなんとかなりそうだぞ、という少しの楽観を与えてくれた。

嬉しかったのはカリアリ最終日、ラボの人々と高級ピザ店へ行った夜のことだ。1番エラい教授が外で煙草を吸おうと誘ってくれた(彼とは煙草友達だった)。ピザの味やら6週間の感想なんかの雑談の最後に、彼は、

「君は飲み込みが早いし、英語力も海外でPHDをやれるくらいにある。もっと自信を持ちなさい。そしてもっと色んな国をみてきなさい。」

と言ってくれた。それはきっと、僕が欲しかった言葉だった。「今から固くならず、ポジティブに」、そんなメッセージをもらえるくらいにこの教授に近づけたことも嬉しかった。目頭が熱くなったのは煙が目に染みたからではないだろう。





他人–––特に異国において–––と適当な距離を掴むというのは、文化や言語や思想の壁もあったりで、なかなか難しかったりする。特に24歳にもなるのに未だに変に斜に構えるところがある自分などは尚更だ。それで損をし後悔をしてきたこともあったし、休学時の反省でもある。あれから2年、少しは人として大きくなれたのかな、と前向きになれた。


1 件のコメント:

  1. あまり人の投稿に対してコメントする事はないけど、今日はぜひしたいなと思って投稿。
    俺も、IT会社でなんちゃって翻訳とかやってたけど、未だに自分の英語力に対して自信がない。
    ただ、英語なんてただの言葉だし、ツールとして使っているだけだけど、肝心のそれを支える技術力があるかといえば、そうでもない。まるで、やせ細って、実のならない木だよ。

    そういえば、keep it rightって言葉があるけど、自分は自分の人生に対して正しく行きているのかよく悩むよ。 自分にとってrightっておもしろいことなんだと思うけど、それができている時もあればできていない時もあるし。

    あきらくんには、医療という武器があるんだから、やっぱりそこを伸ばしていくのが自分のやりたいことの最大限の近道なんだなって思うよ。英語なんて、所詮ツールなんだし、技術があればどうとでもなる!

    あと、自分の英語力のなさに痛感した時は、これをよく見るよ。
    大江健三郎は、あんないい小説書くけど、英語はすげーへたくそ
    (reference: https://www.youtube.com/watch?v=o9_gamHX6mA)

    ようは、何をベースにしてるかだよね。
    おたがい頑張ろー。

    東京から兄より

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